ANMELDENそれから三日、私はずっと四人を見ていました。
証拠が欲しかったのだと思います。
世界のほうが間違っているのだと証明できるものが、ひとつでもあれば。
だから私は、四人をよく見ました。
ノートを取る手つきも、笑い方も、廊下の曲がり方も。
二日目の昼休み、新太くんが購買のパンを二つ買ってきて、片方を私に押しつけました。
私が「ありがとうございます」と言ったら、新太くんは目をそらして、右手の親指で人差し指の付け根をかりかりと掻きました。
私はパンの袋を持ったまま、動けなくなりました。
その仕草を、私は三年間、数えきれないくらい見てきました。
照れたときと、下手な嘘をついたときにだけ出る癖です。
誰にも言ったことはありません。
たぶん、和樹くん本人も気づいていません。
三日目の放課後、幸也くんが「あのさ、」と切り出して、夏休みの宿題を見せてほしいと言いました。
四日目の昼、久遠くんがノートを取る手は左でした。
それなのに、お弁当の箸は右手で持っていました。
「久遠くん、左利きですよね」
「ああ」
「お箸だけ、右なんですね」
久遠くんは、少しだけ手を止めました。
「小さいころに、婆ちゃんに直された」
和樹くんと、一字一句、同じ答えでした。
和樹くんの癖の数々が、すべて四人の中にありました。
間違えようがありません。
私はそれを、三年間見てきたのですから。
もうひとつ、確かめたことがあります。
四人とも、言いにくいことを切り出すときに「あのさ、」から入るのです。
新太くんは「あのさ、明日部活休みだから」。
幸也くんは「あのさ、宿題」。
久遠くんは「あのさ」とだけ言って、そのまま黙ってしまいました。
四人とも、目の形が同じでした。
笑うと、右の頬にだけ
耳の形まで同じでした。
それでも私は、一度も四人を間違えませんでした。
間違えられたらよかったのに、と思いました。
誰が誰だか分からなければ、まだ楽だったはずです。
髪の長さが違います。
肩幅が違います。
歩幅も、声の高さも、制服の着方も違います。
四人が並んでいたら、後ろ姿だけで誰が誰か分かってしまいます。
それなのに、笑ったときに出る笑窪の位置だけが、四つとも同じなのです。
金曜日、私は決定的なことをしました。
部活のない放課後、四人が教室に残っていたので、紙袋を出したのです。
「差し入れです。四人とも、チョコは苦手でしたよね」
中身は、うちの祖母が買ってくる類の詰め合わせでした。
小袋のお煎餅と、柿の種と、甘納豆。
四人が、同時に、同じ顔をしました。
嬉しそうな顔です。
高校生の男の子が、部活帰りにする顔ではありません。
「澪、なんで」
新太くんが言いかけて、幸也くんが最後まで言いました。
「なんで俺がチョコ苦手って知ってるの」
教室が、しんとしました。
四人が、お互いの顔を見ました。
「……お前も?」
「え、新太も駄目なの」
「言ったことないだろ、そんなこと」
「言うかよ、こんなの。恥ずかしいだろ」
「え、待って。俺も駄目なんだけど」
幸也くんが小さく手を挙げました。
教室の空気が、一段おかしくなりました。
「四つ子だからじゃないの」
誰かがそう言いました。
たぶん、そうやって片づけるしかなかったのだと思います。
「そんなことあるか?」
「あるだろ、たぶん」
あるはずがありません。
ないから、私はここにいるのです。
久遠くんだけが、何も言わずに私を見ていました。
私は笑ってごまかしました。
たぶん、うまくできていなかったと思います。
その日、帰り道でそれぞれが私に言いました。
新太くんは「一人で帰るな。危ないから」と言って、遠回りなのに家まで送ってくれました。
幸也くんは駅前で私を待っていて、新作のクレープを二つ買って、片方を私に持たせて、ずっと私を笑わせていました。
久遠くんは、私が誰にも言っていない寝不足を見抜いて、「無理してる」とだけ言いました。
どうして分かったんですかと聞いたら、久遠くんは「顔を見てれば分かる」と言いました。
それだけです。
理由も、心配の言葉もありませんでした。
それなのに次の日の朝、私の鞄に栄養ドリンクが一本入っていました。
和樹くんは、何も言いませんでした。
ただ隣にいて、私の歩幅に合わせて歩きました。
沈黙が気まずくならないのは、この人だけです。
何も起きない時間を、そのまま一緒に過ごせるのは。
四人とも、私のことが好きなのだと分かりました。
同じくらい、まっすぐに。
鞄を玄関に放り出して、私は走りました。
八月の夕方の、まだ熱を持ったアスファルトを蹴って、結守神社の石段を一段飛ばしで駆け上がりました。
息が上がって、途中で膝に手をつきました。
和樹くんなら、ここで立ち止まったはずです。
この石段を、私は和樹くんと何度ものぼりました。
いつも途中で休みました。
休むたびに和樹くんは笑って、「体力なくてごめん」と言いました。
私はそのたびに、ゆっくりでいいですよと答えました。
今の私は、一人で駆け上がれてしまいます。
そう思った瞬間に、涙が出ました。
「結守さま」
誰もいない境内に、私の声だけが響きました。
「結守さま、お願いです。返してください」
「返す?」
声がしました。
高い、幼い、子どもの声でした。
木曜日は、和樹くんの日でした。その日は結城家に親戚が来るとかで、新太くんも幸也くんも久遠くんも駆り出されたそうです。『親戚の相手させられてる。和樹だけ逃げた。そっち行くってさ』幸也くんからのメッセージには、そう書いてありました。 ◇和樹くんは、昼過ぎに来ました。「どこか行くか」「暑いです」「だよな」それで、話は終わりました。私たちは縁側に座りました。祖母が出してくれた麦茶を飲んで、扇風機を回して、それだけです。風鈴が鳴りました。庭の百日紅が、まだ咲いていました。祖母は奥の部屋でテレビを見ています。ときどき笑い声が聞こえました。畳が、日に焼けた匂いをしていました。扇風機が首を振るたびに、私の前髪が持ち上がって、また落ちました。和樹くんは、座布団の上で胡座をかいて、庭を見ていました。何も喋りません。私も喋りませんでした。時計の秒針が聞こえるくらい静かでした。麦茶の氷が溶けて、グラスの中で小さく崩れました。そうやって三十分くらい過ごしたでしょうか。長いようで、短く感じました。「あ」和樹くんが言いました。「猫」塀の上を、茶色い猫が歩いていました。それだけです。猫は塀の向こうに消えて、また静かになりました。私は、泣きそうになりました。猫が通っただけです。それを二人で見ただけです。それだけのことが、こんなに満たされるのだと、私はずっと前から知っていました。 ◇これが、私の知っている時間でした。和樹くんと過ごす時間は、いつもこうでした。どこかに行くわけでもなく、何かをするわけでもなく、ただ同じ場所にいる。話すことがないから黙っているのではなく、黙っていても平気だから黙っている。この人の隣では、沈黙が気まずくなりませんでした。おかしな話かもしれませんが、私はたまらなく、この時間が好きでした。三年間、私はこの時間のために生きていたようなものです。付き合い始めたころは、和樹くんを退屈させていないか気にしていました。もっと話したほうがいいのか、どこかに誘ったほうがいいのか。あるとき、和樹くんが言いました。「俺、しゃべらなくていい相手って、澪がはじめてなんだよ」それを聞いてから、私は黙っていられるようになりました。無理に相手を気遣って、盛り上げようとして疲れる必要が
水曜日は久遠くんです。行き先も聞かれませんでした。朝、玄関を開けたら立っていて、「図書館」とだけ言われました。市立図書館は、自転車で二十分ほどの川沿いにあります。古い建物で、冷房がよく効いていて、平日の午前中はほとんど人がいません。並んで漕いでいる間も、久遠くんは何も言いませんでした。ただ、信号のたびに速度を落として、私が追いつくのを待ちました。少し前をいこうとするのは、自転車でも同じでした。私は、ここ三日ほど眠れていませんでした。目をつぶると、祭りの夜のことばかり思い出すのです。鈴の緒が鳴ったこと。二人の声が重なったこと。和樹くんの指が冷たかったこと。あの夜に戻れたら、と考えます。何度も考えます。願いなんて口に出さなければよかった、せーの、なんて言わなければよかった。でもそれは、和樹くんが二十歳まで生きられないということでもあるのです。どこまで戻っても、正しい道がありません。それを考え始めると、朝になります。「三日前からだな」閲覧席に座ってすぐ、久遠くんが言いました。「何がですか」「まばたきが増えてる。あと、目をこする回数」私は手を止めました。ちょうど、目をこすろうとしていたところでした。この人は、いつからそれを数えているのでしょう。「久遠くんは、いつも人のことをそんなに見ているんですか」「いや」久遠くんは、鞄から本を出しながら言いました。「君だけだ」あまりにも普通の言い方だったので、私は返事に困りました。「眠れてないだろ」「……少しだけ」「そうか」それだけでした。理由は聞かれませんでした。 ◇久遠くんは、私の向かいではなく、斜め向かいの席に座りました。あとで気づいたのですが、そこは窓を背にした席でした。私の顔に日が当たらない位置なのです。しばらくして、久遠くんが席を立ちました。戻ってきたとき、手に薄い毛布のようなものを持っていました。「受付で借りた。冷房が強い」「久遠くん」「寝ろ」「ここで寝るわけには」「誰もいない。俺が見てる」見てる、という言葉に含みはありませんでした。監視でも、下心でもなく、文字どおりの意味です。ここにいて、見ている。それだけです。不思議なもので、その言い方だったから、安心できたのだと思います。その言い方に、私は何も言えなくなりました。
火曜日は、新太くんでした。「どこか行きたいところあるか」朝いちばんにそう聞かれて、私は駅前の書店と答えました。祖母に頼まれた本を取りに行く用事があったからです。「じゃあ行くぞ」それだけで話は終わりました。幸也くんと正反対です。電車の中でも、新太くんはほとんど喋りませんでした。喋らないのに、私が立とうとすると先に立ち、扉が開くと先に降ります。そして必ず、私が降りきるまで待っています。気を遣っているというより、体が勝手にそう動いているように見えました。電車で二駅の大きな駅まで出て、本を受け取って、それで用事は済みました。まだ昼前でした。「終わったな」「終わりました」「……帰るか」新太くんは間の持たせ方を知らないのです。私も人のことは言えません。二人で黙って駅のほうに歩きました。沈黙が続くと、新太くんはだんだんそわそわしてきます。和樹くんの沈黙とも、久遠くんの沈黙とも違います。この人は、黙っているのが下手なのです。声をかけられたのは、駅前のロータリーでした。 ◇制服ではない、けれど高校生らしい三人組でした。どこの学校かも分かりません。「ねえ、今ひま?」一人が私の前に回り込みました。「ひまじゃないです」「そんなこと言わないでさ」私は歩こうとしました。もう一人が横に並んできました。距離が近いのです。手が触れそうで、私は鞄を抱え直しました。こういうとき、どうすればいいのか分かりません。強く言えば角が立って、黙っていれば終わらない。心臓だけが速くなって、足が動かなくなります。次の瞬間、目の前が暗くなりました。新太くんが、私と相手の間に入ったのです。「触るな」低い声でした。聞いたことのない声でした。「は? 何お前」「触るなって言った」新太くんは手を出しませんでした。ただ、一歩も引かずに立っていました。肩幅の広い背中が、私の視界を全部ふさいでいました。殴られると思ったのかもしれません。相手の一人が、半歩下がりました。新太くんの拳は握られていました。けれど腕は上がりませんでした。上げないように力を入れているのが、後ろからでも分かりました。しばらく睨み合って、向こうが舌打ちをして離れていきました。「なんだよ、感じわる」足音が遠ざかってから、新太くんはまだ動きませんでした。「新
夏期講習の最終日、冷蔵庫の当番表が新しくなっていました。誰かが夜のうちに差し替えたのです。犯人はすぐに分かりました。字がまるくて、月曜のところに小さな星が描いてあったからです。「幸也くん。これ、なんですか」『夏休みバージョン』そう書いてありました。送り当番だったはずの表は、いつのまにか「誰と遊ぶか」の表に変わっていました。月曜・幸也。火曜・新太。水曜・久遠。木曜・和樹。金曜・全員。順番は、そのままでした。変えたのは中身のほうです。「送るだけとか、もったいないじゃん」電話の向こうで、幸也くんは悪びれもせずに言いました。「始業式まで、まだ一週間あるんだよ。一週間だよ。一日も無駄にできないでしょ」「私、宿題がまだ残っています」「それも入れといた。水曜の久遠のとき、図書館でやればいいじゃん」「人の予定を勝手に」「勝手じゃないよ。みんなで決めた」みんな、というのは四人のことです。私は入っていません。 ◇月曜日、幸也くんは朝の九時にうちのチャイムを鳴らしました。「早すぎます」「早くないよ。もう夏が終わるんだよ」連れて行かれたのは、商店街の外れにある古い駄菓子屋でした。小学生のころに何度か来たきりの店です。店番のおばあさんは、私たちの顔を見て「あら、結城さんとこの」と言いました。「四人のうちのどれ?」「どれって」幸也くんが吹き出しました。「三男です。幸也です」「そうかい。どれも同じ顔だからねえ」私は笑えませんでした。幸也くんは笑っていました。どれも同じ顔だからねえ。おばあさんに悪気はありません。四つ子なのですから、当たり前の感想です。それでも私は、その言葉が怖いのです。同じ顔だと言われるたびに、じゃあ和樹くんはどこにいるんですかと、聞きたくなってしまいます。店を出てから、幸也くんは十円のラムネを一袋買って、歩きながら一粒ずつ私にくれました。「澪ちゃん、これ知ってる? ラムネって九割がブドウ糖なんだって」「はあ」「だから頭にいいらしいよ。テスト前に食べると賢くなる」「本当ですか」「知らない。たぶん嘘」思わず笑ってしまいました。笑ってから、心臓が冷たくなりました。 ◇川原に着くころには、日が高くなっていました。幸也くんは靴を脱いで、ズボンの裾をまくって、いきなり浅瀬
その週の、久遠くんの当番の日でした。久遠くんは、ほとんど喋りません。教室を出てから川沿いの道に入るまで、交わした言葉は三つでした。「行くぞ」と「うん」と「そっち」です。歩くときは、いつも半歩前にいます。並ぶのでも、先導するのでもなく、半歩前。最初は距離を取られているのかと思いました。違いました。あの位置だと、私の顔がよく見えるのです。「久遠くん」「ん」「疲れませんか。ずっと黙っていて」「黙ってるほうが楽だ」それきりでした。不思議なもので、気まずくはありませんでした。和樹くんと一緒にいるときの沈黙に、少しだけ似ていました。少しだけです。和樹くんの沈黙はぬるいお湯のようでしたが、久遠くんの沈黙は、水の底のような静かさでした。その静かさの中で、私はときどき、見られていることに気づきます。ときどき、久遠くんが半分だけ振り返ります。目が合っても、この人は目をそらしません。そらさずに、そのまま見ています。悪びれもしません。川沿いの道の、堤防が途切れるところで、久遠くんが立ち止まりました。夕方の川面が、まだらに光っていました。「あのさ、」私の心臓が、大きく跳ねました。和樹くんが、言いにくいことを切り出すときにだけ使う言葉です。「君、俺たちを見分けてるよな」風の音が、急に遠くなりました。「……何を言っているんですか。四人とも全然違うじゃないですか」「そうか?」久遠くんは、川のほうを見たまま言いました。「母親でも間違える。父親なんか、いまだに俺と新太を取り違える。中学の先生は三年間、最後まで諦めてた。俺たち自身、写真のうつりが悪いと分からないことがある」知りませんでした。私には、一度もそんな瞬間がなかったからです。「君は一度も間違えない。廊下の向こうからでも、後ろから声をかけても、振り向く前に名前を呼ぶ。体育のあと、四人ともジャージで、髪も同じように濡れてた。あのときも君は間違えなかった」「……声が違いますから」「違うのは分かる。分けられるのは別の話だ」久遠くんは、そこで初めてこちらを向きました。「それと、豆菓子」鞄の紐を握る手に、力が入りました。「四人ともチョコが駄目だと、なんで知ってた」「たまたまです」「四人分たまたまか」「……はい」「そうか」久遠くんは、それ以上追及しませんでした。
次の日の夕方、うちの門の前で、四人が揉めていました。昨日、神社で泣いてしまったことを、四人は誰も蒸し返しませんでした。学校でもいつもどおりでした。幸也くんがふざけて、新太くんが怒って、久遠くんが黙って、和樹くんが笑っている。それがかえって、こたえました。「だから順番だって言ってるだろ」「なんで新太が最初なんだよ」「昨日、俺が最初に見つけたから」「それ関係ある?」鞄を抱えたまま、私はしばらくその場に立っていました。四人が四人とも真剣で、誰も私に気づいていません。「あの」四つの顔が、同時にこちらを向きました。「何の話ですか」新太くんが、一歩前に出ました。「送り当番」「送り、当番」「昨日みたいなことがあると困る」昨日。鞄を玄関に放り出して、神社まで走った日のことです。「町じゅう走ったんだからな。幸也なんか駅まで行ったんだぞ」「自転車で行ったんだけどね」と幸也くんが手を挙げました。「途中でチェーン外れて、押して帰った」「だから、これからは誰かが必ず一緒に帰る。順番で」幸也くんが指を折り始めました。「じゃあ月曜が俺で、火曜が和樹で、水曜が久遠で、木曜が新太ね」「なんで俺が最後なんだ」「言い出しっぺは最後って決まってるんだよ」「決まってない」「じゃあ、火曜と木曜を替われ」新太くんが、和樹くんのほうを見ました。「いいよ」和樹くんは、二つ返事でした。「和樹、お前もうちょっと粘れよ」「粘る理由がないだろ」久遠くんが、静かに口を挟みました。「金曜がない」四人が黙りました。「五日ある。俺たちは四人だ。割り切れない」その言い方に、私はどきりとしました。四で割り切れないという、ただそれだけの話なのに。四という数が出てくるたびに、私はあの夜の声を思い出してしまうのです。死が四度来るまで、と言った、あの軽い声を。「じゃあ金曜は全員で行こう」和樹くんが言いました。それまで一言も言わずに、私の隣に立っていた人です。「四人で行けば、誰も文句ないだろ」「和樹、それ天才」「賛成」「……異論はない」あっという間に決まっていきます。「あの、私、一人で帰れます」四人が、また同時にこちらを向きました。「危ないから」四人とも、同じことを言いました。声の高さはばらばらなのに、言葉だけが完全に重なりました。







